茫漠

意味のないこと

私にはできない

このところなぜかずっと胃が痛い。なぜか、といってもだいたい原因は分かっているけど、それはどうしようもない類のものだからどうしようもない。すでにコップの水はいっぱいいっぱいで、すこし注いだだけでいとも簡単に溢れてしまう。やけ食いをするか奇声をあげるか物を壊すかという三択のおかげで誤魔化し誤魔化し生きている。ふと足元を見ると確かな地面などないことに気づいてしまうから下は向かない。「我に返らないで、先のことは考えないで、お薬を飲んで静かにおやすみ」と自分に言い聞かせる。それでも将来のことを考えてしまう。自殺なんて大それたことはできない人間だから、きっと十年先も二十年先も生きているのだろう。それなりに勉強してそれなりの大学に入ったように、これからもそれなりに生きていくのだろうか。

 

 

あらゆる端末で“女の子”の絵を見る。見ようとしてなくても目に入る。白髪も傷みもないふわふわした髪、皺もデキモノもない陶器のような肌、小さく整った顔と引き締まった腰に長い手足、、、現実には見たこともないような生き物が人間の“女の子”のイメージとして受け入れられている。怒りでどうにかなりそうな時がある。いつもそうなるわけではない、大丈夫な時もある。絵は必ずしも現実をそのままに描くものではないと知っているから。それらの絵が現実の“女の子”を勇気づけたり救ったりすると知っているし、“女の子”自身がそういった“女の子”を描くことで自分自身を生かしたりするのを知っているから。でもときどき受け入れられなくなる。“女の子”であるということは馬鹿にしてもいいことだと言いながら、“女の子”のイメージが愛でるべき対象として氾濫する世界に。こんな茶番にこれからも耐え続けなくてはいけないことに。でも私に『鏡のヴィーナス』は切り裂けないだろう。*1そんな大それたことはできない人間だから。

 

 

やけ食いをし奇声をあげモノを壊し、たまに呪詛を吐きながら、耐え難い世界でそれなりに生きていく。私に『鏡のヴィーナス』を切り裂くことはできない。

 

*1:1914年、女性参政権の獲得を目指して活動を行うサフラジェットの一人、Mary Richardsonがロンドンのナショナル・ギャラリーに展示されていたベラスケスの『鏡のヴィーナス』を切り裂いた。