茫漠

意味のないこと

他者と関わり合うために

誰とどう関係するかは、自分で選んでいたい。

例えば、家族関係には選択の余地がない。とりわけ、子供にとっては。生まれた瞬間から親は決まっていて、簡単には逃れられない。鎖のように絡みついて、互いを縛りつづける。愛情は、必ずしも居心地の良さを生むわけではない。

けれども、友達や恋人なら選ぶことができる。どんな相手と、どんな関係性でいるのか。「相手が選んでくれる限り」という重い条件はあるけれど、家族よりは柔軟に関係性を選択できる。

それは素敵なことだと思う。しかし、関わり続けることは、途方もない努力を要する。関係の本質は、関わり合おうとする互いの弛まぬ努力にある。相手を一つの人格として尊重し、敬意を払う努力。相手の感情の機微に注意を払い、労わろうとする努力。取るに足らない一言一言を積み重ねて、関係性は維持される。関わり合うということは、多分そういうことの蓄積だ。気が遠くなるほど、途方もない努力。

それを私はできるだろうか。

 

私にはできない

このところなぜかずっと胃が痛い。なぜか、といってもだいたい原因は分かっているけど、それはどうしようもない類のものだからどうしようもない。すでにコップの水はいっぱいいっぱいで、すこし注いだだけでいとも簡単に溢れてしまう。やけ食いをするか奇声をあげるか物を壊すかという三択のおかげで誤魔化し誤魔化し生きている。ふと足元を見ると確かな地面などないことに気づいてしまうから下は向かない。「我に返らないで、先のことは考えないで、お薬を飲んで静かにおやすみ」と自分に言い聞かせる。それでも将来のことを考えてしまう。自殺なんて大それたことはできない人間だから、きっと十年先も二十年先も生きているのだろう。それなりに勉強してそれなりの大学に入ったように、これからもそれなりに生きていくのだろうか。

 

 

あらゆる端末で“女の子”の絵を見る。見ようとしてなくても目に入る。白髪も傷みもないふわふわした髪、皺もデキモノもない陶器のような肌、小さく整った顔と引き締まった腰に長い手足、、、現実には見たこともないような生き物が人間の“女の子”のイメージとして受け入れられている。怒りでどうにかなりそうな時がある。いつもそうなるわけではない、大丈夫な時もある。絵は必ずしも現実をそのままに描くものではないと知っているから。それらの絵が現実の“女の子”を勇気づけたり救ったりすると知っているし、“女の子”自身がそういった“女の子”を描くことで自分自身を生かしたりするのを知っているから。でもときどき受け入れられなくなる。“女の子”であるということは馬鹿にしてもいいことだと言いながら、“女の子”のイメージが愛でるべき対象として氾濫する世界に。こんな茶番にこれからも耐え続けなくてはいけないことに。でも私に『鏡のヴィーナス』は切り裂けないだろう。*1そんな大それたことはできない人間だから。

 

 

やけ食いをし奇声をあげモノを壊し、たまに呪詛を吐きながら、耐え難い世界でそれなりに生きていく。私に『鏡のヴィーナス』を切り裂くことはできない。

 

*1:1914年、女性参政権の獲得を目指して活動を行うサフラジェットの一人、Mary Richardsonがロンドンのナショナル・ギャラリーに展示されていたベラスケスの『鏡のヴィーナス』を切り裂いた。

つまらないこと - 憂鬱と怠惰

 精神状態を薬でコントロールするようになって早三年が経つ。もはや抵抗も違和感もない。感覚的には眼鏡と似ている。ほとんど身体の一部だ。

数ミリグラムの物質で感情がいとも容易く変わることが始めは耐え難かった。自分は所詮物質で、精神なんて肉体に付随するただの一機能に過ぎないと突き付けられているようだった。今はそれにも慣れてほとんど意識しなくなったけれど、飲み忘れで離脱症状が起きた時にはその感覚を思い出して落ち込む。考えないようにしているだけで受け入れられてはないのだなあ、と他人事のように思う。

しかしやはり普段はそんなことはほとんど忘れていて、問題は別にある。憂鬱と怠惰が区別できないのだ。これは長年私にとって重大な問題であり続けている。幸い人間関係にはそれなりに恵まれていて、他人にとやかく言われることはない。むしろ「つらいときは休んでね」「頑張らなくても大丈夫だよ」と優しく言ってくれる。

でも頑張りたくない、と頑張れないの境界が分からない。

「根が怠惰だからこれもどうせただの怠慢だろう」と思うけれど頭痛や倦怠感があるので「もしかしてこれが頑張れない状態なのか?」と思い、「しかしそういう状態は昔からあるのだからやはり今はただの怠慢だ、だけど…」とぐるぐる考える。もちろん結論は出ない。これがずっと続いている。


 結局は憂鬱だろうが怠惰だろうが構わず頑張らなくては生きていけない場所にいる。こんなことに悩み続けるのはあまりに不毛だ。死ねない限り生きているしかない。憂鬱と怠惰の間であーあ、とため息をつく。